2日目は、福島市を出て、川俣町、飯舘村を通過し、南相馬市へ。南相馬市から、いわき市まで、福島第一原発、第二原発を横目に、国道6号線を南下しました。案内は、日本共産党福島県委員会の被災者救援対策本部事務局長の野口さん、福島地区被災者支援センター事務局長の佐藤さんにお願いしました。
まず福島市渡利地域。ここは福島市の中でもホットスポットです。福島市のような住宅地では家庭の除染土を置くところがないの で、自宅の庭隅に置いているそうです。住宅地の家庭の庭に、ビニールシートを被った除染後の土が盛られており、「早く中間貯蔵施設が決まれば」という思い になるのは当然だと思います。
川俣町方面に走っていく国道114号線。道路わきで側溝の除染作業をしている姿がたびたび見られます。こうした除染作業は、避難指示区域に指定されているところでは、環境省が行うそうですが、福島市など区域外では、市の事業として行われています。大規模な除染作業は、ジョイント・ベンチャーというゼネコンの共同体が行うことが多いそうです。
川俣町は、一部が避難指示解除準備区域で、そのほかは区域外です。集落ごとの仮置き場を村が決め、全戸除染は2巡目に入るという、県内でも除染作業が素早く進んでいる自治体の一つだそうです。主に、村が地元業者に除染作業を頼み、進めているのではないかということでした。確かに、地元業者の方が地域をよく知っており、作業もスムーズかもしれません。
町 の4分の1くらいが、避難指示解除準備区域となった川俣町。避難指示解除準備区域の町民は、同じ川俣町内の仮設住宅に入っているそうですが、「賠償金を 持った人たち」ということで、町民の気持ちに隔たりが持ち込まれている、ということでした。同じ町内なのに、区域指定されたかどうかでお金をもらう人とも らわない人が生まれる。もちろん、賠償金をもらった方が悪いわけではありません、原発事故で被害を受けられたわけですし、お金もなければ生活再建できない という側面もあります。必要なお金をもらって非難を浴びる。生活保護バッシングを思わせる「分断」攻撃だと思います。
飯舘 村の3つの小学校は、川俣町に合同の仮設小学校を建てており、子どもたちが学んでいました。しかし、本当にただのプレハブの狭い校舎で、「理科(の部 屋)」などの張り紙があるだけの教室です。これでもう5年も学んでいるなんて、考えられません。一刻も早い学校再建が求められていますが、飯舘村は全村避 難の村。その見通しを建てるには、困難が伴うでしょう。「ふるさとも、住まいも、学校も奪われた」。これが飯舘村の子どもたちの現状だと胸に刻みたいと思 います。
飯舘村を走ると、道路わきには水田が多くあります。しかし、仮設住宅で浪江町の方が訴えられたように、そこには除染した土が積まれていました。黒い フレコンバックの大きな山があちこちに。浪江町のみなさんの故郷を奪われた、土を奪われた、私たちの骨折りは計り知れないものだという声が聞こえるようで す。
車は、南相馬市に。南相馬市は、合併前の行政区ごとに、北から鹿島区(福島第一原発から約40㎞~50㎞)、原町区(原発から約30㎞~40㎞)、小高区(原発から約20㎞~30㎞)。事故直後、国からの緊急避難指示が出されたときの20㎞圏内、30㎞県内の線引きにかかり、市民が分断されてしまったといいいます。
南相馬市の道の駅にある観光案内版を見ると、キャンプ場や海水浴場のところに「津波被災」のシール。震災の影響で、現在利用できない状況のようでした。
南相馬市小高駅。自転車置き場には、つい最近まで、震災当日の高校生たちの自転車が残っていたということで知られる駅。自転車は片付けられていましたが、小高区は2.500戸が取り壊し予定、しかしまだ、1.000戸しか完了していないとのことです。
次に、井田川干拓地へ。海をせき止め、100年も前からの稲作地域。ここに津波が遅い、水門が閉じていたため、水が引かないという状況になったそうです。しかも、原発事故があったので近づけないという事態が重なります。自衛隊、警察しか入れないなかで、日本共産党渡辺市議の案内の下、水抜き作業が行われたそうです。
当時、SPEEDIの情報もなかったため、ある自衛隊員は放射能を恐れて、マスクを4重にして酸欠で倒れたということもあっとそうです。実際には風向きから小高区よりも福島市の方が線量が高かったわけですが、緊迫した空気が伝わりました。